「友達と遊んだら?」に娘が泣いた理由|アドラー心理学で気づいた「親の安心」と「子どもの課題」の境界線

「友達と遊んだら?」娘が泣いた理由 子育ての気づき・日常

「友達と遊んだら?」で娘が泣いた日

小4の息子のサッカーに、付き添いが増えています。

遠征や練習試合で遠くまで行くこともあり、小6の長女と過ごす時間が自然と減っていきました。

親として「娘が家で一人でいると申し訳ない」という気持ちがどこかにあって、先日も何気なく声をかけました。

「友達と遊んだら?」

すると娘は、「あんまり遊ぶ気分じゃない」と言って、泣いてしまいました。

最近は友達との交流も広がっているし、仲のいい友達もいる。どうしたんだろう、と思いながら、でもそれ以上は何も言えなくて。しばらく、ただそばにいました。

今回は、娘のその涙から気づいたことについて書いていきます。

なぜ「友達と遊んだら?」と言ったのか

落ち着いてから、ぼくは自分の言動を振り返りました。

なぜあの場面で「友達と遊んだら?」と言ったのか。

娘が寂しくないように、という気持ちももちろんありました。でも正直に思い返してみると、それ以上に「娘が家で何もしていたら申し訳ない」「友達と遊んでいれば親として安心できる」という、自分自身の気持ちが大きかったと気づきました。

親の「安心したい」という気持ち

子育てをしていると、親は無意識に「子どもが元気にしている=自分が安心できる」という構造を作ってしまうことがあります。

そしてその安心を得るために、子どもに「こうしてほしい」と伝えてしまう。

今回の「友達と遊んだら?」も、形は娘への気遣いでしたが、実態は親であるぼくが安心したかっただけかもしれない。

それに気づいた時、少し恥ずかしくなりました。

友達がいることと、いつも遊びたいことは別

娘には友達がいます。仲のいい子もいる。

でも「友達がいること」と「いつも友達と遊びたいこと」は、まったく別のことだと気づきました。

大人でも同じですよね。友人はいるけれど、今日は一人でいたい日がある。家でぼーっとしていたい日がある。特に何もしたくない日がある。

それは孤独でも問題でもなく、むしろ自分の状態と向き合う大事な時間かもしれない。

子どももまったく同じです。

「一人でいたい」は子どもの権利

娘が「遊ぶ気分じゃない」と言ったのは、友達との関係が悪いからでも、元気がないからでもなかったはずです。

ただ、その日はそういう気分じゃなかった。それだけのことだったかもしれない。

なのに親が「友達と遊んだら?」と言うことで、「今日は一人でいたい」という娘自身の気持ちを否定してしまっていた。

娘の涙は、「遊びたくない」という抵抗ではなく、「自分の気持ちをわかってほしい」というメッセージだったのかもしれません。

アドラー心理学「課題の分離」で考える

アドラー心理学の「課題の分離」は、「これは誰の課題か?」を明確にすることで、自分と他者の境界線を引く考え方です。

「休日をどう過ごすか」は、娘の課題です。ぼくの課題ではありません。

娘が友達と遊ぶかどうか、一人で家にいるかどうか、どんなふうに過ごすかを決めるのは娘自身です。

親が「安心したい」から出る言葉は、子どもの課題に踏み込んでいる

「友達と遊んだら?」という言葉は、一見子どもへの気遣いに見えます。でもその動機が「親の安心」から来ている時、それは子どもの課題に踏み込む行為になっています。

アドラーが言うように、人は自分の課題に踏み込まれると、自分の意思を奪われたように感じます。

娘が泣いたのは、そういうことだったのかもしれません。

「今日は一人でいたい」という自分の気持ちが、親の「友達と遊んだら?」という言葉で否定された感覚。それがあの涙だったのかもしれない、と今は思っています。

子どもの「自己決定感」を守ることの大切さ

アドラー心理学では、人が「自分の人生の主人公」でいるために「自己決定感」がとても重要だと考えます。

自己決定感とは、「自分のことを自分で決めている」という感覚です。

これが育っている子どもは、自己肯定感も高く、困難にも主体的に向き合える力を持ちやすいと言われています。

親が安心のために決めることは、この感覚を奪う

たとえ良かれと思ってであっても、親が子どもの「どう過ごすか」を決め続けると、子どもは「自分で決める力」を育てる機会を失っていきます。

小さな日常の「今日は何をしようか」という選択の積み重ねが、将来の大きな自己決定力の土台になります。

娘が「遊ぶ気分じゃない」と自分の気持ちを言えたこと、それ自体はとてもいいことだったと、今は思っています。

ぼくがあの言葉に「そっか」と受け取れていたら、もっとよかった。

親にできること|「元気そう」より「自分らしくいられるか」を見る

今回の気づきで、ぼくの中でひとつ視点が変わりました。

子どもが「元気そうにしている」かどうかを見るだけじゃなく、「自分の気持ちに正直でいられているか」「自分のペースで過ごせているか」を見守れる親でいたい、ということです。

「何もしない」を許す

友達と遊ばなくていい日がある。

ぼーっとしていい日がある。

何も生産的なことをしなくていい日がある。

それを「いいよ」と言える親でいることが、子どもにとっての安心の土台になるんじゃないか、と思っています。

「元気そうにしていれば安心」という親の目線から、「自分らしくいられているかな」という目線に少しシフトしていく。それが今のぼくの課題でもあります。

娘の涙が教えてくれたこと

今回の気づきをまとめます。

・「友達と遊んだら?」は、親の安心のために言っていた言葉だったかもしれない
・友達がいることと、いつも遊びたいことは別。子どもにも一人でいたい日がある
・「休日をどう過ごすか」は子どもの課題。親が安心のために決めるのは課題の分離ができていない状態
・子どもの自己決定感を守ることが、将来の決断力と自己肯定感の土台になる
・「元気そうかどうか」より「自分らしくいられているか」を見守れる親でいたい

娘の涙は、ぼくにとって大事な気づきをくれました。

「子どもの時間は子どものもの」。それを改めて思い直した出来事でした。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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